地球平面説と人生の余裕

「地球は平らやねんで」

大学生の私は雷が落ちたような衝撃を受けました。星が綺麗な夜でした。一緒にキャンプへ先輩といった夜、散歩をしている時に明日の天気を言うかのようなノリで教えてくれました。

 

先輩は若くして会社を興し、日本人なのにイスラム教徒で、ドイツ語と英語をしゃべり、オンラインポーカーで学費を払っていたスーパーマンです。何を言い出すかと思えば地球が平らだと言う事でした。地球が丸いというのは神を忘れさせる為のイルミナティの陰謀とのことです。水平線をみて地球が丸いんだあ、とか勝手に思っていましたが、冷静に考えればホントに丸くなっているところ見たことないですね。

先輩が言うには地球を丸いことにすれば人々が神を忘れ、信仰をしなくなる悪魔崇拝者が地球を牛耳ってしまっているのが原因みたいです。本当の地球はピザみたいな丸で、中心に北極があり、回りの耳の部分が南極になっています。炭素年代法もある時期を境に使えなくなるのはその時に地球と人類が誕生し、それ以前の悠久な宇宙の存在とかは全て嘘だということも知りました。

地球が丸いとかそういったことを信じていたのダメなんだと。Youtubeにもたくさん地球が丸い事の説明動画がのっていました。飛行機でなぜ南アメリカからアフリカに行くのに南極を回っていかないのか、なぜ南アメリカからアフリカに行くのにヨーロッパを経由するのかといったことをモデルとして紹介されています。

 

先輩の事は尊敬していますが、この話を聞いた時気が触れてしまったののではないのかと心配しました。急に地球が平らで悪魔崇拝者が牛耳る世界と考え始めるとはいよいよやばいなと思ってしまいました。その時はキャンプ場で、同じ車でそこまで来たので、帰りは無事に帰れるのかとか心配になりました。

それでも、一人で一晩考えるとそれでもいいんじゃないかと。この出来事が私の人生においてコペルニクス的な転換を与えてくれました。

 

先輩は言ってました。

「だから神は人間の為に存在する」

そうです。神は居るのです。二度寝している時も、だらだら会社に行く時もみています。酒飲み過ぎてゲロ吐いて記憶吹き飛ばしても家に着くのは神の手助けがあるからなのです。だから、日頃の行いを見つめなおして、徳を高めることが大切なのではないでしょうか。

正直地球が平らでも球体でも私にとってはクソどうでもいいです。でも地球が平らって信じている人も球体って考えている人もこの世に生きていると考えると地球はやっぱり丸いですね。どんな考え方をしている人でも一緒に地球上で生きている。地球は器めちゃくちゃ広くないですか。

そう思えば、誰が何を思って、どういった行動をしているのか意図があるのだと。私が考えている事と違う事を考えていても考えること自体はおかしいことでなく、その考え方に同意できるかできないかとまた別のレイヤーであるといった認知ができるようになるきっかけが出来ました。信じるか信じないかは別として一つの事象にたいして色々考えられるようになりたいですね。そういったきっかけを与えてくれた先輩にも地球平面説にも感謝です。地球平面説を学ぶことで人生の余裕が出来るのではないのでしょうか。

どうせ死ぬなら美しく

天竺鼠の漫才の掴みで川原さんが「人は皆死ぬ」のようなことを言っている回がありましたね。昔から芸術のテーマとして、メメント・モリだったり現代的な言い回しで言うのであれば #YOLO だったりするのです。

 

死ぬという事実は際限ない恐怖ではないですか。気が付かないフリをして生きていますがめちゃくちゃ怖いです。どうなるかわからないから怖いし、自己が消滅することも怖いし、自らが永久に永らえることも怖いし、書きながら怖くなってきました。

 

それでも、なお世の中で自殺を選んでしまう人がいるのもまた事実。生きている事の方が辛いので手段としてそういった道をえらぶのでしょう。そこまで何かに追い詰められてる心中は当事者でない私が到底理解できるものではなく死こそが手段として最善であればその行動を無条件で糾弾することはできません。生前の彼ら、彼女らの選択の上で迷ったうえでの意志をむやみにけなすのはあまりに不作法だと思います。

 

不謹慎な話ですし、倫理的でもあるのですが、Twitterなんかで自殺を配信する人の映像なんかありますよね。その上で死ぬのであれば美しく死にたくないですか。良く言うのは首を吊ると筋肉が弛緩し、腸が出てくるとか言いますよね。そういった不可抗力をきれいにしたいという話ではなく美しく散る手段を探したいですよね。

 

自殺という手段を選んで人生を自ら締めるのであれば、そのタイミングは自ら決めれるので色々整えられるのでしょうか。私にはそこまでの覚悟がないから緩いことを言ってられるのかもしれませんが、個人的には自分で死ぬのなら体はちゃんと洗いたいし、服もちゃんと着て、文章も頑張って書いてお別れしたいです。ちゃんと無駄な脂肪も落として、整えたいですよね。こういったブログなんかもしっかりPCの履歴から消してネットの海に完全に放流したいですよね。

 

そう考えると事故死だったり、急病だったりでタイミングを選べないパターンもありまよね。それも予知するとやはり、マイルドヤンキーマインドで楽しんだもん勝ち♪的な心の持ちようが最強なのかもしれません。やっぱり湘南の風を毎日聞いてドルチェ&ガッパーナの香水をして、bbを買ってボンネットにファーを垂らし、クローズを全巻読み、子供には東京卍リベンジャーズを全巻買い与えるべきです。そうすればいつでも死ねます。取りあえず喫煙可能の若い兄ちゃんのやっているショットバー行ってナンパしてくるところから始めようと思います。よろしくお願いします。

 

街中華の謎

街中華に最近スポット当たっていませんか。

なんかよく街中華という単語を聞きますよね。東京に来てから初めて街中華という言葉を聞いた気がするのと、やたら行くようになった気がします。

オフィス周りにはたくさん中華があって良くいきますが、街中華という言葉の概念的には、日本風の油めの味の素系統で日本人がやってるタイプの食堂とある種意味合いが強いイメージです。その定義で行くとオフィス周りの中華は本格中華の味がするので少し違う感じがします。

 

4連休において今のところ、そしてこれからも誰とも会わず家で朽ちていくのみです。やることがないのでお昼ごろに意味もなく家を出て外食をして本屋によって、カフェでそれを読んで帰る生活を今のところ2日間連続で行っています。明日も明後日もそうでしょう。今日お昼を家の近くの街中華にすることにしました。

 

街中華感あふれる年季の入った建物、赤いポリエステルの庇、汚い引き戸、厨房のがみえるテイクアウトっぽい窓。ザ・街中華。地元の民しか入ってはいけない感じがしてずっとは入れなかったお店に今日こそは行ってやろうと思い立ったのです。

店に入ると右手側は厨房とカウンター、左手側は壁に沿って2人席と4人席が並んでいます。左手側の席はすべて土方系の男性で埋まっており、カウンターには誰も座っていませんでした。

カウンターに座るように指示されるも、カウンター席の一番奥側はティッシュやら、洗ったグラスやらいろいろ雑多なものが置いてありました。別に区切りがあるわけではないですが、カウンターを同じ距離で分け合った時のサイズ感で自分の陣地がだいたい決まると思うのですが、奥から詰めたせいでそういったものが少し私の席の陣地に入っていて席に座ったものの居心地が悪かったです。

店内のランチセットの黒板に記載の合ったもやしラーメン・餃子セットを注文し5分程度きました。もやしラーメンはシンプルな醤油ラーメンの上にひき肉ともやしの中華風あんかけがのっているシンプルなもので餃子も小ぶりではあるものの6つ付いていて味も美味しかったです。しかし、僕の食べ物が来ているのに壁側に座っている5組くらいの方々より先に来たので、後ろから視線をめちゃくちゃ感じながら食べることになりました。

後ろの人達の方が明らかに早く来ているのに私のが先に来たので視線をめちゃくちゃ感じました。きっともやしラーメンを食べるのは一見さんだけで、後ろから常連特有の品定めをされていたのでしょう。だから僕のだけ先にきて他の方々のは全然来なかったんじゃないでしょうか。

もしかするとあれはハンター試験の会場だったのかもしれません。エビチリ、敷いてるレタス抜きでとか言ったら試験会場に行けたのかもしれません。そうすると後ろで待っていた人たちはみんなハンターで会場移動するのを待っていたと考えると合点がいきます。水のグラスも良いサイズのビアタンだったのであのタイミングで水見式をすれば良かったのかもしれません。良く良く見れば店員さんも年季の入った店内なのにアラサーの男性二人で回していたのであれは試験官に違いありません。さっき調べるとその感じで24時間営業でもあったのでいよいよです。

ランチセットは995円という不思議な価格設定でした。

上野のガールズバーは客側のステージなのかもしれない

上野に行くことが多いです。

ツレの多くは上野付近に住んでいて、私は蒲田に住んでいるのに遊びに誘われたら行ってしまいます。誘われた遊びは100%断らないと決めているので京浜東北で一本だからと思いながら電車に乗ります。誘われて遊びに行くヨ!のテンションは最高に高いのですが、一本を過大評価し過ぎて、距離があるという事実が抜け落ちているので東京駅あたりで落ち着いてきて秋葉原でハッピーに家を出た理由を考え直し、上野に着いた時は普通の心持ちです。

 

だいたいアメ横の高いんだか安いんだかわからない適当な居酒屋で酒を飲みます。上野界隈のお店は喫煙なのか禁煙なのかわからないお店が多すぎます。似たようなテナントに限りなく境目のない中華、焼き鳥、魚くらいの3パターンの体の居酒屋でいつもどこで飲んだか忘れてしまいます。外で酒飲んでるのに隣の店はタバコ吸えてこっちは吸えないとかありますけど、あれはなんなんでしょう。納めてる税金の額とか、店主のサービス精神とかその辺の匙加減なのでしょうか。隣くらいの奴がタバコ吸って吸えないとなんか騙された気持ちになりますよね。

 

アメ横から少し歩いて2軒目でガールズバーにいくのです。

いつも同じキャッチのお兄さんが声を掛けてくれます。普通のガールズバーに入れられしっかり飲んで10000円とかくらいサクッと毟られてしまいです。

私の趣味の女の子は、文化系でショートカットで眼鏡をかけているタイプの子が好きなのでガールズバーにいってどストライクの女の子を引くことはまあありません(そういう子が多いお店あったら教えて下さい)。

だいたいは似たか寄ったか、声が通って、元気のある女の子とお酒を飲むわけです。急に資本主義経済について熱く語って舌戦を繰り広げるわけでもないです。やっぱり人と盛り上がるにはみな平等に共有できる話題が良いので、出身地だの何繋がりの友達だの毎度ガールズバー行く度にするわけです。

同じメンツで飽きずに何度も遊んで決まって店にいかずあちらこちら行くと、ただの質問でも徐々に嗅覚が鋭くなっていくわけです。こう来たらこう返すっていうトークスクリプト的な団体芸が完成してくるわけですね。誰かがこのエピソードトークしたらこう回すとか。楽しいですよね。いよいよこれはもてなされていってるのではなく自分たちの芸を見てもらうために飽きずに違う店ばかり通い、お金を払って発表会をする。

ハッキリ言って酒も飲んでるし毎回違う女だから誰が誰か覚えていねえし、何なら同じでも構わない。この絡みも今日はできた、ここからこうやって話ししたらどうだろう、どうしたら面白空気になるかなという遊びをやらせてほしい。行った側の絆を確かめ合う遊びなんですね。そう考えると一人で行く人もいるわけで、ガールズバーの懐の深さはものすごいですね。

 

上野が絶妙なのかもしれない。他の地ではホントにプロの子がいたり、話が面白い子がいたりしてしまうのでそうなると我々の絆も崩れてしまう。一度ものすごくかわいい子いてゲームたくさんする流れになったら私は全然面白くなかった。そういった遊びがしたくてガールズバーに行ってるわけではないのだなと気が付いた。上野はその点良いのかもしれない、元気があって若いタイプの女の子しかいないのだから素晴らしいのです。

結婚式に参加する

結婚式は人が決めてくれるわけではないのですよね。自己主導で流れる音楽とかケーキの高さとか、着る服とか何から何まで自分で決めるんですよね。

考えた式を周りの人に披露することで自分の決断と今後、二人で生きていくという意思を表明する機会なのです。

そういった会によんでもらえる事はとても喜ばしいことです。そうやって仲の良かった友人がどんどん大人になっていくわけです。純粋に羨ましい、その一方で焦りがありますね。

 

結婚式という現実。

同年代が結婚することに突きつけられるのはいままで見てみぬふりをしていた事実です。結婚する人は積み上げているのです。

 

結婚するという決断に至るまでに、いろんな人と出会い、その中で伴侶をみつけ、付き合い、一緒に住み、時には喧嘩することもありながら、最終的に生涯をかけてともに生きていくという選択をしているのです。

私が家でお昼まで寝ている間に、きっとフレンチトーストを仲良く作っていたし、午後にぼんやりワイドショーを見ているときに、水族館に行ってきゃっきゃうふふしているし、夜に一人で酒を飲んでいる時には、セックスしていたのでしょう。

彼らにとって当然の出来事として営まれていた生活が結果として地表に出てきて結婚という芽がでたのです。

私は水もやっていなければ、種さえも今は植えていません。隣で水をやっている所は見ていましたがそもそも種の埋め方もわからないので、そのうち勝手に芽が出てくると思っていました。

 

種がないのでしょうか。回りに落ちているものなのでしょうか。そもそも種という言い方も舐めてますよね。相手ありきのことなのにこの言い回しがファーストチョイスになっていることも恐ろしいことですね。書き直すのがめんどくさいのでそのままですが、確かに選ばれる側に回らなければなりませんね。

 

どうしたらいいのでしょう。顔も良いわけでもないですし、性格もめんどくさいシャバいタイプなので難しいのかもしれません。

 

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これくらいシンプルに誰と結婚したいという気持ちがないのですね。そこまで積み上げられていないということなのでしょう。のび太君の感情表現の素晴らしさ。人としてめっちゃできてますね。この境地に至るまで様々な経験をして一人の人間として力を付けているので、しずかちゃんと結婚したい。しずかちゃんと生涯暮らしていくんだという気概を見せられるのでしょう。私もそんな人間になりたい。

 

質問するやつって何?

久々に文章を書きます。

書きたくなったタイミングでかけるのでケータイからの投稿もこれから使っていきたいですね。

 

東京はGO TOキャンペーンという概念もなく、帰省もできず。お盆の長期休みを一緒に過ごしてくれる異性もおらず。なにか思い切ったことをしようと思った次第です。

 

10万円もお上からノーリスクで頂いたので、ひとりで使えるおもしろ10万円イベントを考えました。有給等々組み合わせた9連休のお盆だったので、金と時間を費やせるイベントとして、スカイダイビング教室、乗馬教室、英語教室の3択でした。

 

スカイダイビングは昔から憧れがあります。高いところ飛び降りるまでの緊張感と飛んでいるときの開放感の差がすごいたまらないのだろうなと。でも、飛ぶときはインストラクターと飛ばなきゃいけないというのが嫌です。なんか他人ピッタリくっつかれた状態って考えると嫌じゃないですか?

お金払って見ず知らずの人に後ろに張り付かれ、せーので飛んで、楽しいフリーフォールのときも後ろに人いるしはしゃぎづらいし、パラシュートで宙に浮いてるときなんてものすごい気まずいんでしょうか。

ならば何回か我慢して教習という体で飛んで、一人で飛べるスカイダイビングありかなと思いました。

 

はたまた、乗馬は楽しいので趣味にするのにちょうどいいのではないかと。学生時代3週間のホームステイでイギリスに行った際に、ホストファミリーが調教師で毎夜乗馬をしていました。ものすごく楽しかったので長いこと続けられる趣味としてライセンス取るのも悪くないかなと。

 

上記2つは趣味絡みです。両方楽しそうですし、一人で今後付き合っていくことのできる高尚な匂いのする趣味となるのでいいんじゃないかと検討していましたが、結局英語学習という一番面白みのないところに収まりました。

 

10万円で1週間。1日中授業。TOEICの点数が上がるタイプの塾でした。高校時代もまともに勉強せず、推薦で大学に入学し単位すれすれで卒業した私にとって、目的意識のある座学の勉強は中学生ぶりで懐かしい気持ちが蘇りました。

 

高い金を払って参加しているのでやはり他の受講者の方も意識が高く、英語の学習を通じてキャリアアップを目指している上昇志向の方が多かったです。私も特段頭の良い方なわけではありませんが、授業内容は理解できますし、今回の講座はみずからのTOEICがどの程度の習熟度で、どうやって勉強すれば点数アップができるのか指標がわかりました。

 

よくわからないことというか、中学時代から軽蔑していることがあって、問題集を解いたあと先生が答え合わせと解説をしてくれるタイプの試験対策系の授業で質問するやつってなんなんですか?

さっき回答した直後の問題に対して、この問題の対策とか、覚え方がどうのとか、早い解法がどうのって聞く奴ってどういう脳みそしてるんですか?

 

「この問題ってこういうことですか?」

「設問が難しくて時間がかかるんですけどコツとかありますか?」

「語彙が身につかないんですけど、、、」

学生時代にこのタイプの質問する奴いたなと思いだして、いい年こいた大人でも同じような質問する奴がいるんだと驚きました。

高い金払って、意識志向高いタイプの人でもそんなこときくんだと。。。そのへんのやつなんて知ってるか知らねえかだから、死ぬほど勉強すればいいんじゃないんですか?なんで講師にそのへんを聞くんですか?

指名されたときに回答間違えて、無理やり発音しつつ、間違えた内容に関して言い訳ポエム読むおっさんとかね。馬鹿なんかなと。

お前が間違えた理由は一個も聞きたくねえ。教師の解説を聞きに来ているので、貴方の個人語りはいりません。

 

何でしょうね。楽をしようとするのは悪いことではないですが、そもそも九九わからんやつは算数できないのと一緒で、そもそも大前提九九の勉強もせず、質問する奴の無敵の人感エグいですよね。九九を暗記しなきゃいけないことに駄々をこねてる大の大人って見方するとやっぱり多少気持ち悪いと思ってもバチは当たらないですね。

 

概ね、盆外にも出ず塾に行って、家にいて一生懸命勉強したらTOEICが150点上がりました。800になったので次は900点狙えますね。ちょっとは腹立つやついましたけど、塾通い自体は大成功でしたし、あの懐かしいイライラにふれられたのも学生時代に戻った気分で、ある種のモラトリアムですね。

意味もない決意表明

これは本当に私自身への戒め。ネットタトゥーでゴリゴリに残しておけば退路を絶てるので。

 

現状に文句を言っていいのは努力をしている人だけです。なんの努力もせずにただ生きているだけの人間にグダグダ言われる筋合いはない。

今までは視点として自分が知らない時に努力をしているのではないかとか、しっかりと頑張っていることを私が見ない振りをしているのではないかという考え方がチラついた。でも頑張ってない人間は確実に存在する。

 

環境が人を作るというが、誰もがみんな同じようにひたむきに頑張っているということはない。他者へ共感しているフリを自分でしていただけなのだ。そもそも誰かが頑張っていいると思い込むことで視野の広くて誰にでも優しいという自己陶酔に浸っていただけなんです。

 

いろんな考え方があるから大丈夫だというのは勿論頭の一方に置いておくべきだ。でも、その考え方を常に持っているのは逃げの一手でしかない。自己決定の中にそういう反対意見もあるけど、それでもこれを選んでいるという認知がないと、本当に思ったことをうやむやにしてしまう自分がいるのだ。

 

だからこそ、嫌なことは嫌と、ムカつくことはムカつくし、気が悪いこともいっぱいある。それに対してなぜ自分がそう思うのかしっかり考えなければならない。必ず反対の考え方があるのに反対意見をみて自分の行動を変えたり、推し進めなかったりするのは意味が解らないということに気が付けたのが良かったです。

 

現状を打破するのは自分です。人を頼ることを当てにしてはいけません。自らが上がった先に助けの糸があるのにその場で糸を待つのはあまりにも悠長で、その意識の人間を引き上げたいとも仏は思わないでしょう。Twitterで一生お金が当たる企画をリツイートして、意識の高いクローズドサークルに入って何者かになったつもりになれば気持ちいいのかもしれませんが、そんな公開オナニーする暇があれば勉強をしましょう。

 

論理的思考がどうのこうの行ってきた同級生。今から全員ぶっ飛ばしてやるか言い訳を論理的に考えて来いよ。メタ的視点をもった自分が一番賢いと思うその態度がムカつくんだよ。フェルミ推定だの、MECEだの、グルーピングだの、ロジカルシンキングだの事象に名前を付けて遊んでいるだけ。定規とコンパスで算数のテスト用紙の裏に規則正しい図形を描いて遊んでいるのと変わらんからな。いたずら書きして綺麗に六角形かけたからテストの点数が上がるのか?日常生活で点数をあげるように他人とやかくケチつけてマウントとってんじゃねえよ。

 

えげつないブーメランを投げまくってる自分へ。そのブーメランを避けれる分の努力をしましょう。そんな奴を相手にしなくても済むように頑張らなければいけないのです。そういう人がいても今まで通り笑って流しましょう。でも誰に文句言われても自分が信じているだから関係ないのよ。